これは小見山社長が全くゼロから会社を立ち上げていく自伝です。
雑誌「無店舗販売」の1994年6月、8月号の連載記事から。
信じるままに我が商売の道を行く
日本テレフォンショッピング(株)
社長 小見山 邦興
- 年収約2000万円、住居部分140平方メートル、庭部分(1階なので借地の庭がついている)60平方メートル、計200平方メートルの自己所有のマンションに妻と子ども3人の5人で住む。
休日は近所の図書館へ行って、趣味の研究書を探したり、マンションに付属する温水プールで子供達と泳ぐ。1年に1度くらいは家族そろって海外旅行を楽しむ。新宿の会社までは電車で1時間20分。決してルーズなわけではないが、自分で出勤時間、退社時間を決められる。交際費の支出も自由だ。
これが資本金1000万円、年商14億円強(1993年度)の日本テレフォンショッピング株式会社の創業者でオーナー社長の私(51歳)の私生活だ。
会社が利益を上げれば、それが1000万、億万単位になったとしても、その多くは私の資産になる。サラリーマンでは考えられない桁違いの資産増だ。もちろん倒産すれば、逆に億単位の借金を背負うことになる。幸いにも現在まで会社は順調に伸びている。では、なぜ伸びるのだろうか。
- 商品購入代行業という情報産業
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日本テレフォンショッピング(株)の仕事は耐久消費財一般の販売だ。家電商品、OA機器、家具、厨房機器、健康器具、楽器、カメラ、時計、ミシン、自転車、温室、車庫、高級食器、その他言葉あるいは数字で品物を特定できるものなら何でも扱う。当社は普通の販売会社と違い、取扱商品を限定しない。つまり当社は「商品購入代行業 」の性格を持っている。さらに格好をつけて言えば、市場価格の下限という知識を売る「情報産業」とも言える。
当社は、無店舗無在庫でカタログも作らない。メーカー発行のカタログをそのまま使っている。宣伝は一切しない。経費は電話代、ファックス代、家賃、人件費くらいだ。運送費は商品が受けた時、お客様に実費を請求する。
こうして固定経費を極限まで切りつめている。当社ほど社員一人当たり、事務所面積当たり、商品一件当たり、コストの低い販売会社は他にないと思う。仕入先は1つに頼らず複数もち、絶えず天秤にかけて、少しでも安く仕入れるようにつとめている。支払いは1000万円をこえてもオール現金だ。少しでも安く仕入れるためである。
商品の大半はメーカーあるいは問屋の倉庫からお客様に直送する。工事の伴う仕事(エアコン、ウォッシュレットなど)は、工事業者にファックスで指示する。このような固定経費を極限まで切りつめるシステムによって、当社の平均売価は日本一安くなっている。アフターサービスの電話が入れば、メーカーのサービスセンターに電話して行かせる。
お客様はメーカーのショールームなどから最新の総合カタログを自分で取り寄せ、そのカタログを見て当社に電話で注文する。そのためお客様は延べ時間10分でも広い範囲から最善の選択ができる。しかもその売価は日本一やすい。
その結果、宣伝をしなくても口コミを基本にして、創業以来毎年、1割~5割伸びつづけている。
昭和52年、個人会社から株式会社にした時の年商は1000万円だった。現在の1、2日の売上だ。しかも商圏は電話のあるところ、日本全体だ。当社の発展に上限はない。
社員の定着率は現在のところ100%と高く、ベテランが多いため、私が会社にいなくても日常業務に支障はない。
こう書けば私の主観的な気持ちはともかくとしても、客観的には恵まれた生活と言えるかもしれない。
この恵まれた生活を私はどのようにして作り上げてきたのか。しかも売り物になるような知識も肩書きもなく、利用すべきコネもなく、もちろん金も全くなく、つまり全くゼロの状態からどのようにして現在の生活を作り上げてきたのか。私のささやかな体験を述べてみたい。
10代の終わり頃、多くの青年がそうするように、私は人生について考えた。良く生きるとはどのように生きることなのか。偉大な成功を収めるにはどうすべきなのか。さんざん考えたその答えは、世俗的打算に決して走らないこと、状況に流され、利己的な保身に走らないことだ。そのような生き方をすれば、たとえ小さな成功はしても偉大な成功は収められない。常に真理は何かをつきつめ、内なる良心の声のみに従うこと。つまり理想主義こそ偉大な成功を収めるために必要だと考えた。
しかし、理想に走ることが、偉大な成功に直結しないことは明らかだ。主観的には理想であっても、客観的には独善であり、社会から偏屈な変わり者として評価されるだけに終わる可能性もある。
その場合は自分の力が足りなかったのであり、甘んじてその評価を受けるしかない。良心に従って精一杯生きた、という内的満足のみを支えにして、その時は生きるしかないと考えた。
10代の頃の人生に対するこの考え方は、現在でも正しいと信じている。最もその成果は中小企業の親父にすぎず、それ以外見るべき仕事は何もしていない。偉大とはほど遠い。
能力不足というよりほかない。
- 就職せずに定職をめざす
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私は当面の職業として新聞記者になるか大学の先生にでもなるつもりだった。関西大学文学部新聞学科を卒業した。しかし、社会のさまざまな現象を表面的に分析するだけでなく、もっと根本的な原因を分析するために、日本大学大学院文学部哲学科に入学した。
入学した春、大学経営における20億円の使途不明金が新聞で暴露された。その金は学生たちの入学金や授業料から出たものだ。それ以前から学生の自由な活動を規制する大学の体質、批判的動きを体育系学生を使って暴力的に威嚇する体質に強い不満があった。
温かい春の日差しのなか、ノウスリーブになった女子学生のピンクに輝く肌、さんざめく華やかな雰囲気とともに、キャンパスには異常な緊迫感が張りつめていたことを覚えている。突然、文理学部のキャンパス内でデモが始まった。私にとっては突然だった。しかし、後にデモを組織した学部の学生に聞くと、死ぬ覚悟で無人の教室に入り、机の棚にビラを配布したそうだ。
戦場でもない日本で、死ぬ覚悟で始められたこのデモが、その後、日本中の学園を巻き込んだ68・69年全国学園紛争の始まりだったのである。
その後、私は無数の論争を行い、数多くのデモや集会に参加し、また真剣に本を読んだ。キャンパスがバリケード封鎖され、学生による大学の自主管理が始まった後は、ときにバリケードに泊り込み、自分のアパートとの間を往復した。その間さまざまなアルバイトもした。
山谷のどや街のベッドハウスに1ヶ月近く泊り込み、じか足袋をはいて土方をしたこともある。そこで日本人で文字の読み書きのできない人がいることを、初めて知った。手紙の代筆をしたことがある。
学生運動にあきたらない私は、この時期「世界連邦研究会」を主宰した。そして核戦争の危機から人類を救い、公正な世界権威による公正な世界秩序を創造する道を考えた。この会は多いときには10数大学に会員を持ち、会員は全国で200数十名に達した。
やがて学生運動は破綻すべくして破綻した。残されたのはセクトの争いだけであった。
この問題に関して私はさまざまな思いがあるが、依頼されたこの原稿のテーマと違うため、これ以上はふれない。しかし、この2年あまりに学んだこと、体験したことは、それ以前の学生生活で学んだことのすべてより多いと思う。
私は1年おくれで修士課程を卒業した。卒業するまで親は私の所業を特に問いただすこともなく、仕送りを続けてくれた。だが、卒業後も親に甘えるわけにはいかない。自活しなければいけない。
そういう状況にいながら私はもはや就職する気持ちを失っていた。学生運動に参加し、アパートを家宅捜査されるなど、芳しくない経歴があっても、えり好みさえしなければ就職はできたであろう。だが、サラリーマンになってしまえば、その後の生活の先は見えてくる。僅かばかりの給料をもらって、気に添わない仕事であっても1日中働き、家にかえれば後は食べて寝るだけ。
こんな生活を続けるくらいなら気ままに土方でもしていた方がよい。今風にかっこをつけて言えばフリーアルバイターでもやっていたほうがましだ。当時の言葉では定職なしだ。
しかし、私はフリーアルバイターになるつもりはなかった。何か定職を持ちたかった。
- 会社設立後もアルバイトで稼ぐ日々
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最初に考えたのは収縮(シュリンク)フィルムを中心にした包装資材の販売だ。父が収縮包装の機械を製造する小さな会社を関西で持っていた。そのため少しばかりの知識があった。
収縮フィルムとは瓶詰めのキャップなどの封緘に使っている。封緘の塩ビフィルムにミシン目と握り部分がつけられ、握り部分を引っ張ると、ミシン目にそって封緘がはずれる。
また、収縮フィルムは、瓶全体や玩具の小箱などの包装にも多用されている。電話もない3畳のアパートでは仕事は始められないと思い、アルバイトで貯めた20万円で少し広いアパートを借り、電話を入れた。前家賃、敷金、礼金、電話代、事務机、事務椅子1セットで20万円は消えた。
アパートは7畳くらいのの板間と4畳半の畳間と3畳くらいの台所が付いていた。7畳くらいの板間に電話を置き事務所にした。できるだけ安い費用で広い所を選んだそのアパートは小田急線の梅丘駅の近く、線路沿いにあった。木造2階建てのその部屋は、電車がとおる度にゆれ、急行や特急が通ると騒音で電話もろくに聞こえなかった。
友人は一度泊まると二度と泊まろうとはしなかはった。夜眠れないからだ。看板は「小見山技研オートメーション製作所東京事務所」にした。父の会社の東京事務所にしたのだ。ハッタリのためだ。
父からは東京事務所にするなら利益の一部を本社に上納するくらいでなければいけない、と言われたが、払ったことはない。最盛時、20数人余りの従業員をかかえていた父の会社は、石油ショック後、倒産してなくなった。
収縮フィルムの仕入先は分かっていた。フィルムの原反メーカーはほとんどが大メーカーで、メーカーからたどっていけば問屋はすぐわかる。問題は売り先だ。
私はデパートに行き、収縮フィルムを使っている製品、あるいは収縮フィルムをつかえそうな製品のメーカーを調べた。
線路沿いの事務所にもどってから、そのメーカーに売り込みの電話をした。「収縮フィルムその他包装資材で必要なものはありませんか」と。収縮フィルムだけの売り込みだけだったらすぐ断られそうだから、その他の包装資材も扱っていることにした。商品知識は皆無だったが、必要が生じてから、泥縄式に必死で勉強した。大企業は相手にしてもらえないから、中小・零細企業に電話した。担当者が会うだけは合ってもよい、という会社があると、中古の留守番電話をセットして合いに行った。しかし、なかなか仕事はとれない。そのため食えない。この頃しばしばアルバイトをした。1番よくしたのは、朝早く山谷に出かけて立ちんぼうをして、手配師に連れられて土方をすることだった。学生時代の経験が役立ったわけだ。当時は朝早くさえ出かければ、仕事にあぶれることはなかった。
事務所を持って3年目の正月、会社も休みで、冬のため土方仕事もない。文無しで新宿の町を歩いていて、アルバイト募集の張り紙を見つけた。通称小便横丁、新宿駅のガード沿いのきたないバラックの商店街だ。そこで皆が遊んでいる正月の3日間、焼き鳥の串刺のアルバイトをしたこともある。当時生きるためには何でもするつもりだった。
この頃、唯一の質草、母親からもらったオメガの時計を質屋に持っていって5000円借りたことがある。この時計はその後も2、3度質屋を往復した。現在は壊れて動かなくなったまま、私の机の引き出しに放り出されている。
アルバイトをしている間は、もちろん留守番電話をセットしていた。対外的にはあくまで包装資材の販売で食っている振りをしていた。そのうち少しずつ顧客がついてきた。しかし効率が悪い。会社回りをしていると、包装資材の購入よりも、事務機器や電気製品の購入のほうがはるかに頻度の多いことに気付く。会社で事務機器などの購入の話を聞くと、『私が安く持ってきますよ』と引き受けた。それから必死で仕入先を捜して納品した。
事務所を持って仕事を始めるとき、包装資材の販売以外の仕事も考えていた。死にもの狂いで数年も働けば、包装資材の販売だけでも、生活するくらいの顧客はつくだろう。しかし、その市場は小さく、大企業に入り込める可能性はなく、何の特殊な商品も持たない私には、将来の可能性は限られている。そのことを私は十分承知していた。
何かもっと偉大な成功を収められる商売はないのか、常に考えていた。しかし私には1本の電話以外なにもない。それだけで始められて、将来日本全体を対象にできるような巨大な成功をおさめる商売はないか、考え続けていた。
そしてついに気付いたのだ。「大メーカーの規格品ならどこで買っても同じだ。それなら安いにこしたことはない。安くさえすれば必ず売れる。その需要に上限はない。ほとんど無限大だ。そして安くするためには無店舗で電話だけで商品を右から左へ流せばよい。
店舗販売に比べてはるかに販売コストが安くなる。カタログはメーカー発行のものをその
まま使えばよい」この着想に私は小躍りした。しかし、どうしてお客様を見つけてくるのだ。私は電話帳を開いた。そして大企業は相手にされないため、中小・零細企業にかたはしから電話した。『事務機器や電気製品など何でも安く販売していますが、何か必要な品物はございませんか』と。
当時は電話セールスという習慣があまりなかったせいか(私自身電話セールスという言葉自体知らなかった)、10社か20社に1社ぐらいは、会うだけなら会ってもよい、と言う会社があった。
これはデパートで包装資材を使いそうな製品を捜してきて、そのメーカーに電話セールスすることと比べて、極めて効率がよかった。事務所にいながらいくらでも電話できる。
なかにはちょうどこういうものが欲しかったという会社もあった。そのときはまた必死で仕入先を捜してきて納品した。そのうちむこうからさまざまな問い合わせや注文が入るようになってきた。これらの問い合わせや注文にも極力応じるようにした。『うちでは扱っていません』、という応対をした記憶がない。
いわば電話による「商品購入代行業」を始めたのだ。
- 超零細企業時代の苦い経験
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こうして働きながら「世界連邦研究会」も続けていた。この会で地域の住民100人~200人くらいを集めて献血のボランティアをしていた。小田急線の経堂駅前で献血活動をしていたとき、日赤の献血車に乗ってきたアルバイトの女子学生がいた。私の3人の子どもの母、つまり現在の私の妻である。
彼女にただ同然で帳簿をつけてもらい、電話番をしてもらい、ときには電話セールスもしてもらった。私の協力者第1号である。電話セールスをするとき、でたらめに電話するのではなく、急成長していそうな業界、会社、あるいは羽振りのよさそうな業界、会社を選んだ。そのなかに会員制サークルがあった。その事務所を訪問すると異常な活気がある。
その会に入会すれば商品が安く買えるなどさまざまな特典があるという。しかし、サークルの仕組みを聞くと、入会者をネズミ講的に勧誘し、入会金を集めることが目的であり、特典はそのためのだしであることが分かった。巧妙に一種のネズミ講といえる。
しかし、私にとっては商品さえ買ってくれれば、相手が何をしていても構わなかった。
商品を買ってもらっているうちに、会員制サークルの男性幹部の1人と親しくなった。
彼は私が1人で事務所を持って仕事をしていることを知り、自分も独立したいから一時事務所に同居させてくれないか、と言ってきた。自分の電話は自分で引くと言う。私は承諾した。私にとっては電話番が1人増えるだけだ。損はしない。
当時、私の彼女(現在の妻)は大学を卒業し、台湾系の小さな商社に勤めていた。私には1人を雇うほどの余裕も仕事もなかった。
2ヶ月くらい(だったと思う)同居した後、彼に新宿で事務所を借りるから一緒に来ないかと誘われた。彼の仕事は例の会員制サークルの会員に商品を流すことだと言う。その最大の仕入先は私になるであろう。私は承諾した。私の事務所はあまりにもみすぼらしく、急行や特急が通ると電話もろくに聞こえない。取引先がきても、事務所だけで信用を落とす。実際に仕事に支障がきていた。しかしちゃんとした事務所を1人で借りて維持する自信がない。そこで私は新宿に移った。
新宿に移ってすぐ、彼は会員に商品を流すよりも自分でネズミ講的会員制サークルを始めようとした。物を売るより、ネズミ講の本部になることの方が、利益が大きい。元の仲間との衝突を避けるため、東京(新宿)を名目上の本部にして、大阪で始めると言う。私は協力を要請されたが言を左右にして無視した。
この会員制サークルは厳密には違法かもしれない。しかしその巧妙なやり方から判断して、摘発されるようなことはない、と私も考えていた。また短期間で荒稼ぎをして、事務所を閉めてしまってもよい。
実際彼らはその後も摘発されなかったようだ。しかし本部とごく少数の人だけが莫大な利益をあげても、大半の人が損をすることが分かっているような仕事に、私は踏み切れなかった。
彼は元の部下を使って大阪で始めた。そして目覚しい成功をおさめた。毎月100万円単位の利益が上がり始めた。一方、机を並べている私の方は、顧客が徐々に増え、一人雇うくらいの力はついたが、豊かさとはほど遠かった。スポットで仕入れた商品を市価よりも安く、ときには逆ざやで納品していたからだ。
莫大な利益をあげ、発展する自分の仕事に協力しない私が、彼にはうとましくなったようだ。蜜を求める蟻のように彼の回りに集まる人々とも溝ができた。私が外出中、私にかかってくる電話にもついにキチンと対応しなくなった。私は分かれることを決めた。というよりも追い出されたという方が正確かもしれない。
私の雇っていた男は元の事務所に残った。羽振りのよいほうに、雇い主を乗り代えたのだ。
1年余りの同居だった。苦い経験だったが、鼻先に札束をぶら下げられても、良心に恥じることをしなかったことを、私は今でも本当に良かったと思っている。
私は同じ新宿区のマンションに5坪の部屋を借りた。約80万円かかった。新宿にした理由は、当時、都の浄水場跡に超高層ビルは京王プラザホテルしかなかったが、私には、ここに近い将来、必ず高層ビルが林立する、新しい東京の中心、つまり日本の中心になることが分かっていたからだ。そのときが来れば、近隣の人々はさておき、日本人の大半は東京の新宿といえば、近代的な超高層ビル街を連想するようになるであろう。自社のイメージアップに少しは役立つかもしれないという計算だ。
現在、約2万人の顧客が沖縄から北海道まで分散している状態で、この計算が正しいのかどうか、私には確証がとれないが・・・。
- 誠実な右腕と出会う
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新しい事務所の看板は「小見山技研」にした。が、すでに父の会社は倒産してなくなっていた。私が世田谷の小田急線沿いに事務所を持って以来5年がたっていた。
なんとか食べているだけで、見るべき成果はほとんどなかった。しかし諦めたわけではない。なぜなら、“大メーカーの規格品ならどこで買っても同じだ。それなら安ければやすいほどよい。無店舗で商品を右から左へ流せばどこよりも安くできる。”この信念が間違っているとは思えなかったからだ。
当時のネックは、余りにも規模が小さくて、量を扱えないために、いくら努力してもあまり安く仕入れられないことだ。だが、それでも顧客は増え続けている。今後、扱い量がふえればもっと安く仕入れられる。売価が下げられるだけではなく、利益も出る。大きくなればなるほど仕事はしやすくなる。今は続けるより他ないと考えていた。
しかし、仕事は少しでも効率よくしなければならない。そのため包装資材の仕事は別として、事務機器や家電品の注文のときは、『この仕事は小見山技研のテレホン販売部で扱っていますから、極力電話だけですましてください』とお願いした。たいていの仕事は電話だけですんだ。
この頃、毎週1,2回、仕事が終わってから千駄ヶ谷の都立体育館のプールに通っていた。私はカナヅチだったので、ぜひ水泳を覚えたかったからだ。また、健康のためにも何かスポーツをしたかった。その点、水泳は一番やすかったので水泳を選んだのだが、のちに水泳愛好者のサークルに入った。
そこで愛想の良い青年に出会った。彼の実家はラーメン屋であり、父母、兄とともに調理師として家業を手伝っているという。しかし、出前要員にまわされることが多く、少々くさっていた。
私は彼に一緒に仕事をしないかと声をかけた。彼の名前は佐山茂、現在、当社の取締役で私の右腕だ。そして私の第2の協力者である。傍若無人なところのある私と違って、彼は社交性に富みながらも決して浮薄ではない。誠実で責任感が強く、さらに努力家だ。彼が仕事で骨惜しみをしているのを見たことがない。彼の献身なしには現在のわが社はないといってもよい。
- 隣の事務所は組事務所!
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この頃収益の8割くらいは包装資材の販売に頼っていたが、将来性を考えて、小見山技研テレホン販売部を独立させることにした。このときのテレホン販売部の年商が1000万円だったことを覚えている。
昭和52年4月、日本テレフォン販売(株)を設立した。資本金170万円だ。そして5坪の部屋に、小見山技研と日本テレフォンショッピング(株)、の2つの看板を出すことになった。
新しい事務所は新宿2丁目にあり、マンションの住民の大半は普通の人だったと思うが、ホモ、おかま、右翼団体の事務所もあったが、これらの人々はもちろん犯罪者でもなく、マンション全体の品位と評価が少々落ちるだけで、どうということはなかはった。
ところが私が入居してすぐ後に隣の部屋の入居者も変わっていた。新しく入居してきたのは、山口組系の暴力団だった。なんと隣が暴力団の組事務所になったのだ。預金をはたいて移転し、取引先にも移転の通知を出したばかりだった。再移転する経済的余力はなかった。私は諦めて成り行きにまかそうと考えた。
それから、隣の部屋から終始怒声が聞こえるようになった。普通の人なら1年に1度か10年に1度も上げることのない怒声だ。彼らにとっては普通の会話とは、怒声を張り上げることなのかもしれない。
ある朝の新聞に新宿で殺人事件があったと載っていた。トルエンの密売にかかわる縄張り争いのためだという。その被害者の住所が私の事務所の隣になっていたのだからびっくりした。
その後、私たちは部屋の鍵をいつも内側からかけていた。暴力団抗争に巻き込まれて、間違って殴りこまれたり、ピストルでも打ちこまれたらたまらない。また、うちの来客が、通路やエレベーターでトラブルに巻き込まれはしないかと、心配の種はつきない。
そんな心配をよそに、隣の部屋に出入りする人間に新顔が増えた。軽く会釈しただけなのに、自分のことをべらべら話し始めるやからもあった。その男は凶暴な雰囲気を体中からは発散させながら、1週間前にムショを出たばかりだと話していた。
あるときその男が「1万円貸してくれないか、1週間後に必ず返すから」とペコペコしながら私に頼んだ。私は山谷で日雇い労働をしていたとき、暴力団員としか思えない手配師の下で働いたこともあるし、義人党の組事務所に給料を貰いに行ったこともあった。しかし、彼らの本当の習性は映画で(本当かどうかわからないが)見た程度だった。
私は1万円くらいだったら無くしてもかまわないと思い、「返済は1週間後ですね」と念を押して貸した。今考えれば脅されたわけでもないし、断ろうと思えば断れた。しかし、私の持ち前の好奇心から、彼がどのような反応を示すか見てみたかった、というのが正直なところだった。
1週間後、予想したとおり、男は例の1万円を返しに来なかった。それで、私は隣の組事務所に集金に行った。ドアを開けて入った私を見た途端、その男が飛び出してきて、私を外に押し出した。
そして声をひそめて、「2.3日で必ず返すから兄貴(という言葉を使ったと思う)に言わないでくれ」と訴えた。その表情は必死で、あきれるほど低姿勢だった。そして私に「2.3日で必ず返す」と繰り返した。
その後1,2回催促したが、そのたびごとにすぐ返すというだけ。結局、そのまま姿を見なくなった。暴力事件でも起こしてムショに戻ったのかもしれない。
ある日、管理人さんがやってきて隣の部屋が3ヶ月も家賃を払っていない。弁護士を使って追い出したいからぜひ協力して欲しいと言ってきた。私は一瞬「お礼参り」を考えたが、断固協力することを決めた。「しょっちゅう怒声が聞こえること。抗争に巻き込まれることを恐れて、いつも内側から鍵をかけていること。安心して仕事ができず、迷惑をうけていること」を証言して署名した。するとまもなく暴力団組事務所は撤去された。
この経験から私はアウトローとの付き合い方を知った。その方法は、静かに、道理をキチンと述べること。不当な要求に対しては、はっきり断ること。恐れて迎合的な言動をとらないこと。暴力的に威嚇された場合は、全くためらうことなく警察を呼ぶ意思を伝えていること。そして実際に警察を呼ぶこと。つまり怯えず、静かに、はっきりした態度をとることだ。だが、原則はもちろん敬して近づけないことだ。
- 雑誌掲載で大反響
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会社が大きくなるにつれ、このような類の顧客によるトラブルもあったが、前述の要領で処理してきた。またマスコミなどに紹介されると、良い人ばかりではなく、なかには凄みを効かせて面会を強要する人もいたが、これも前述の要領で処理してきた。
中小・零細企業といえども、一切の責任がかかってくる社長業には、事に及んで適切な処理を断固として行う勇気が必要だと思う。危機に直面したときには知識は役に立たない。
勇気、胆力が役に立つ。
日本テレフォンショッピングの売上は少しずつ増えているようだったが、もっと劇的に増やす方法はないか考えた。しかも費用をかけずにだ。そこで、マスコミを利用することを思いついた。
紀伊国屋書店に行き、週刊誌、業界誌の雑誌名と住所をノートにメモしてきた。買うと費用がかかるので、ノートに書き写してきた。そして手紙を出した。内容は「他に類のない無店舗のシステムで、耐久消費財一般をどこよりも安く販売する会社を設立したので取材してください」というような内容だったと記憶している。そして、運がよければ取材されるかもしれないと期待した。
「週間読売」から取材の電話が入った。5坪の部屋で取材を受けた。1時間以上話したと思う。
1ヵ月後の「週間読売」に『頭を使った金使い』という特集記事の中の一部で紹介された。この記事は電話1本、社員2人の会社にとっては、爆発的な効果があった。12月のボーナスシーズンだったこともあり、電話が鳴りやまない。急いでもう1本電話を入れた。
もっと電話線が欲しかったが、ビル全体に余り回線がないという。それで新しい電話を親子電話にした。もっとも電話を増やしても、受ける人間がいなかったであろう。当時、彼女だった妻は小さな商社を辞め、他で働いていたが、急遽、手伝ってもらうことにした。
彼女にはそれ以前も以後も陰に陽に助けてもらっている。
得体のしれない零細企業を大週刊誌に掲載してくれた記者の勇気に、今も感謝している。
記者の名前は嶋崎富士男氏、12年前ガンで死去された。亡くなる6ヶ月くらい前、『俺はガンだからもうすぐ死ぬよ』という電話をいただき、返す言葉がなかった。ガン告知が今ほど一般的ではなかった時代だ。
死去を遺族から聞いた後、お墓参りに行かなければと思いつつ、多忙にかまけて、未だに行っていない。心残りになっている。
- 前年比4倍の売上
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この頃のお客様との会話の大半は売価を答えることではない。売価を答えた後、代金を先に振込みしてもらうための説得だ。会話の8.9割を説得のために費やすこともあった。
説得のための台詞も工夫した。この台詞は電話ショッピングに必要なノウハウで、わが社のソフトの1つになっている。
最近はこのソフトを使うことは百に1つもない。昔と比べると現在は驚くほど仕事がしやすくなったと言える。
会社設立1年後の決算では年商4000万円になった。1年前の4倍だ。包装資材の収益をはるかに超えた。テレフォン販売だけで食っていける見通しがついたので、専念することにした。包装資材の販売は従来のお客様からの注文を処理するだけにした。
昭和53年、日本テレフォンショッピング(株)に変更した。それは、電話機の販売をしているのですか、という問い合わせがしばしばかかってくるようになったからだ。
次の年の年商は6000万円、その翌年の年商は7800万円とさらに増え、すぐ1億円を超えた。営業の基本は口コミだったが、それだけに頼ったわけではなかった。
わが社のような耐久消費財の販売は食品のような生活必需品と違い、月による販売高にムラがある。ボーナス月の6・7月、12月は大きくなり、1・2月、8・9月は小さくなる。その幅は倍近くある。
対前年同月比で1割から5割増えつづけていたが、1度売上増が止まったことがある。
それは設立3年目の6月だった。7月になっても増えないので私はあせった。何か宣伝する方法はないのか?しかも費用をかけずにだ。前と同じような内容の手紙を週刊誌や業界誌に送っても取材される可能性は少ない。もっとパンチのある手紙は書けないか考えた。
そこで、私は画用紙でゼッケンを作った。画用紙に「私に声をかけてください。パンフさしあげます」と大きく書き、その下に少し小さく「耐久消費財がどこよりも安い」と書き、商品名、メーカー名そして日本テレフォンシッピング(株)と電話番号を入れた。この画用紙をビニールの透明のシートではさみ、四方に穴を開けてひもを通した。この手製のゼッケンを胸と背中につけ、通勤しようというのだ。
初日、世田谷のアパート(最初に事務所を開いた場所)から出かけたときのことを覚えている。朝いつもの出勤時間、ゼッケンをつけてドアを開けて2.3歩踏み出して、戻ってしまった。気後れがしたのだ。だが、一度ドアの中にもどってから、意を決して歩き始めた。「別に死ぬわけじゃない」と呪文のように繰り返し、自分に言い聞かせて。
会社の行きと帰り、ゼッケンをつけて数日通った後、その自分の姿を写真に撮り、手紙をつけて週刊誌、業界誌に送った。1ヶ月ほどの間に夕刊フジ、オール生活、後1社か2社に記事が掲載されたと思う。
そのお陰かどうか、9月中旬ごろから再び対前年比3割以上も伸びはじめた。そしてゼッケン通勤は3ヶ月続けて止めた。なぜ止めたのか?3割も伸びれば、もういいやという気持ちがあったこと。仕事は結構忙しい。それにいつも群集の中で注目されていることに慣れたとはいえ、精神的に疲れるものだったからだ。
このときのゼッケンは数枚作ったが、今では手元に1枚残っている。このゼッケン通勤で奇妙な経験をした。4年以上、毎日通っている見慣れた景色であるはずなのに、ゼッケンをつけるだけで、景色が違って見えてくるのだ。従来見えなかったものが見えてくる。
奇妙な経験というよりほかない。また、ゼッケン通勤で主体性が強くなったことも実感した。精神的に鍛えられたのだ。
宣伝の方法としてチラシを撒いたり、広告を出すことが考えられる。どこでも売っている大メーカーの規格品をチラシや広告で売るためには、売価が安いことが不可欠だ。しかし、効果があるほど安い売価を出せば逆の効果もある。メーカーに目をつけられ、商品の供給をストップされる。独占禁止法に違反する違法行為だが、現実にまかり通っているのだから仕方がない。
裁判をしてもラチがあかない。10年、20年裁判を続けても、その間、商品の供給はストップされたままだ。裁判のための膨大な時間と費用は、中小・零細な販売店にとっては重い負担だが、巨大メーカーにとっては痛くも痒くもない。
メーカーとケンカし手ひどい打撃を受けた販売店の多くの例を私は見聞している。
日本では法律は通らない。力関係がものをいう。ダイエーが成功したのは、日曜雑貨や食品などを販売していたからだ。これらの雑多な商品を生産している弱小メーカーとの力関係において勝ったからだ。
独占化、寡占化したメーカーによる再販規制、市場支配は、日本の社会的経済的発展も阻害している。
- キャプテンシステム
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昭和54年12月、キャプテンシステムの研究開発が始められた。これは元に巨大なコンピューターを置き、そこに百科事典のようにあらゆる情報を記憶させる。その中には商品情報も入る。
この膨大な情報を家庭の電話線で引き出し、家庭のテレビで見る。ユーザーは電話線とテレビをつなぐ簡単な端末(アダプター)を買うだけで、その膨大な情報を利用できる。
郵政省が音頭をとり、日本を代表する企業が研究に参加しているという。私はさっそく郵政省の下部組織のキャプテンシステム開発研究所に出かけた。そして「わが社も研究に参加したい」と申し込んだ。担当者はろくに話もしてくれない。私は国家予算で運営されている以上、民主公開公平を原則にしなければならないはずだのに、なぜわが社が参加できないのか、どうしたら参加できるのかねじこんだ。
何度か通っているうちに、どこで誰が決めたのか、すでに参加している企業の2社以上に推薦があれば、新規参加できるという情報を得た。
私はツテを頼りに、推薦してくれる企業を尋ねまわった。そしてついに「ぴあ」と「朝日新聞社」の推薦を受けることができた。できたばかりの零細企業を、このとき推薦してくれた「ぴあ」の松井隼人氏(現在ぴあ取締役)と朝日新聞社の斎藤信也氏(定年退職後、現在朝日販売開発株式会社顧問)の勇気と男気に今も感謝している。
当時の参加企業のリストが残っている。171社載っている。あ行から始まるリストでわが社の前後には日本テレビ、日本電信電話公社(現NTT)、日本放送協会(NHK)が名を連ねた。残りの大半も日本を代表する企業ばかりだ。
このリストを政府のお金で作ってもらい、いたるところに配布されただけで、私にはがんばった甲斐があったというべきであろう。
昭和56年8月、いよいよ商業化のための実験が始まった。私は最新のシャープのワープロと東芝のビデオ、松下の冷蔵庫を商品情報として出した。
冷蔵庫だけは松下の上層部にお伺いを立てた。国家プロジェクトを成功させるために、安く売価を設定したいのだが、どのくらいなら良いのでしょうか、と。2割引なら良いという。私はがっかりした。2割引ならどこでも売っている値段であり、わざわざキャプテンシステムを使って買う必要がない。私には売れないことがわかっていた。しかし、紹介者の顔もあり、結局2割引で出してしまった。
ワープロとビデオは即日にオーダーエントリー(注文)があり、入金もされた。わが社のキャプテン担当者が早速商品配送の手配をし、ワープロは即時に発送した。万全の準備をしていたわけだ。しかし私は気になって注文者の身元を探ってみた。その2人ともメーカーの社員だということが分かった。再販規制のためのいわゆる「買い取り」をしたのだ。
ワープロはすでに送ってしまっていたから、後の祭りだ。ビデオを買った東芝の社員にわが社の営業から電話させた。「技術部が営業と相談なしに売価を出したが、あのような売価では営業から商品を回せない。申し訳ないけど、キャンセル返金させて欲しい」と。
1週間もしないうちにシャープから反応があった。従来の仕切りでは商品を供給できないという。私は再販規制ではないかと抗議した。シャープの販社の担当者は、そうではない、組織変えをしたためだと言い訳をした。
私は一瞬裁判を起こすことを考えた。しかし、さまざまな条件、力関係を考え、メーカーに屈することにした。商品情報を当り障りのないもの、つまり売れないものだけに差し替えたが、この冷蔵庫のオーダーエントリーはゼロだった。
しかし、もしこの時、自由に販売できたら、わが社はもっと大量の商品を目一杯安い売価で入力したであろう。その結果、1社でもキャプテンを実用に役立たせ、わずかでも利益をあげたなら、無数の会社がキャプテンに参入したであろう。情報量は爆発的に増え、安い買い物を家庭にいながらできるメリットだけからでも、端末(アダプター)を買うユーザーも増えたであろう。もしそれが実現したなら、日本社会のマルチメディア化、コンピューター化の起爆剤になったかもしれない。もちろんわが社の爆発的発展の起爆剤になりえたはずだ。
これは単なる可能性である。だがこの可能性は巨大だ。この巨大な可能性を独占化、寡占化したメーカーはもったいなくもつぼみの内に刈り取ってしまったのである。
このツケを最終的に支払うのは、最も弱い立場の人々、末端の消費者であることは言うまでもない。メーカーの再販規制、あるいは流通業界の前近代性によって、日本の消費者物価は世界一高くなっている。日本の工業製品は日本で買うより、運賃(コスト)のかかっている外国で買う方が安い場合がしばしばある。
このような失敗にもかかわらず、わが社は発展を続けた。その理由は「良いものを安く」という流通業の王道をまっすぐ歩き、さらに、それを支える技術的、社会的発展に乗っていること。つまり時代の追い風に乗っているからだと思う。
- 時代の追い風に乗って
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この数年間の宅配便の発展は目覚しいものがある。私が世田谷で商売を始めたとき、メ ーカーや問屋で配達してくれない場合は、中古のライトバンを借りて自分で配達することもあった。だが、新宿に移ってからは宅配便を利用するようになり、配達コストは数分の一に下がった。しかも地域を限定しなくなった。
だが、当時は宅配するだけで、開梱セッティングはしなかった。あるとき、世田谷区のお客様に大型冷蔵庫を配送した後、お客様から電話が入った。玄関先に置いていかれたが、他に家人もなく、動かせないがどうしたらいいのですかと。私は仕事が終わってから夜遅く妻とそのお宅に伺い、お客様と一緒に開梱セッティングしてきた。現在では考えられない苦労だ。ちなみに、このときのお客様は現在もわが社のお得意であり、よく利用していただいている。
運送会社は現在では開梱セッティングどころか、エアコン、アンテナなどの取り付けまでしてしまう。配送に関して、今は悩ませられることはほとんどない。
さらにファックスの普及もめざましい。当初は仕入先に電話で注文していた。そのためときどき食い違いが出た。言った、言わないのトラブルはたびたびあった。だが、今はファックスで注文するため、このようなトラブルはない。
お客様からの注文もだんだんファックスで来るようになった。会社はもちろん、個人客からも増えている。特にまとまった点数の注文には極めて便利だ。銀行からは入金者のリストがファックスで随時流れてくる。ファックスがこれほど普及しなければ、今ほど効率よく仕事ができなかったであろう。
また商品自体の変遷もわが社に味方した。パソコン、ワープロのような商品は、店頭で現物を見ても何も分からない。記憶容量、プリンター方式などデータで商品を選択しなければならない。このような商品が増えたことは、わが社のような無店舗販売をなりわいにしている会社にとって非常に有利である。
お客様の購入態度も変わった。カタログあるいはデータで商品を購入することが、この十数年で著しく普及した。日本人の約4割がカタログショッピングの経験があるという。
百貨店や大手スーパー、通販会社が普及の後押しをしたわけだが、わが社はその恩恵に最も浴していると思う。
そして時代の流れを見ながら、企業運営の舵取りに重大な失敗さえしなければ、「市場価格の下限という知識」を売る「情報産業」としてのわが社は、これからも発展しつづけるものと信じている。
あせらず、気楽にやっていくつもりだ。
最後に、私のささやかな体験が、今後自分で事業を始めようとする人々の参考になれば幸いです。 (完)
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